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  • 執筆者の写真笑下村塾

薬物依存だった母…医師になった娘が気づいた依存症の「本当の敵」

テレビのコメンテーターなどで活躍する医師、おおたわ史絵(ふみえ)さん。3年前から刑務所で受刑者の医療措置や健康管理を行う「矯正医療」に携わっています。その背景には自身の過酷な生育環境があるといいます。昨年9月に出版した『母を捨てるということ』(朝日新聞出版)では、薬物依存症に陥った母親との長年の確執を明らかにし、母親に「死んでほしい」と願うまでに追い詰められた心境をつづっています。依存症と向き合うにはどうしたらよいのか、笑下村塾のたかまつななが話を聞きました。



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母親を殺したいと思うことも

――去年出版された『母を捨てるということ』(朝日新聞出版)という本を読ませていただきました。お母様が依存症で、お母様を殺したいと思ったことがあると知ってびっくりしました。 おおたわ史絵さん(以下、おおたわ): 殺したいというか、死んでくれとは思っていましたね。それが高じて、殺してしまいたい衝動に駆られる日もありました。母とはあまり上手に関係性が作れなくて、すごくいびつな形のまま年数を重ねてしまったのが原因だと思います。 ――タバコをギュッとされたとか。 おおたわ: 私が母親の思うような娘ではなくて、とにかく気にくわなかったんでしょうね。昔はお灸をすえるといい子になるという迷信みたいなことがあって、お灸なんてないから、タバコの火を押し付けられそうになることがありました。 ほかにも、叩かれたり怒られたり灰皿を投げつけられたり布団叩きで叩かれたりしました。でも、そういうことよりも、これをしてくれなくて悲しかったというほうがつらいんですよ。例えば褒めてもらえない。かわいいと言ってもらえない。大好きだよとも言ってもらえなかったです。


薬物依存症だった母親

――お母様は薬物依存症だったんですよね。それに気づいたのはいつごろだったんですか? おおたわ: 子どものころは、他の家庭の親と比べたことがないから、自分の母親のことをおかしいと思ったことはなかったです。大人になって医者になってから、例えばアルコール依存患者や暴力依存患者のいる家庭とかDVが起きている家庭とか、そういうケースを見ていると、うちの母親は麻薬の薬物依存の患者だったんだなと知りました。 彼女の性格の変化とか、私たちの家庭が壊れていったのはそれが原因だったというのは後から分かったことです。 ――それまでは気づかなかったんですね。 おおたわ: いま思えば私が中学生のころも高校生のころも、おかしな状況だったんですよ。リビングに注射器が転がっていたり、使い捨てのアンプル(注射剤を入れる容器)が転がっていたり。母親が注射を打った後はいつも血だらけだったり、洋服が血で汚れていたりもしました。


依存のきっかけは鎮痛剤

――お母様に持病があって、鎮痛剤として使い始めたのがきっかけだそうですね。 おおたわ: 母親は盲腸とかがこじれてしまって、お腹がしょっちゅう痛くなる体質でした。父親はその痛みを解消する目的で母親に飲み薬を与え始めて、それがどんどんエスカレートして注射薬になり、オピオイドという麻薬性の鎮痛剤を注射するようになってしまったんです。だからといって必ず依存症になるわけでもないのですが、うちの母親にはたまたま合っていて、だんだん止まらなくなっていったということだと思います。 一回そうなると父親にも娘の私にも止めることはできません。依存症って、好きで楽しくてやり続けていると思う人がいますが、本人は本当は死ぬほどやめたいんですよ。でもやめられないのが依存症なんですね。だから一番つらかったのは母親だったと思います。 ――依存症は本人の意志の強さの問題じゃないのに、まだ誤解されがちですよね。 おおたわ: 意志が弱いからとか、だらしがないからだとか思われがちですが、そう言われることで本人たちはまた自信を失ってしまって、苦しいからまた薬に手を出したりお酒に手を出したりして悪循環になっていきます。社会の理解が進んでいないというのは大問題です。 ――お父様もお医者さんなのに止められないということに驚きました。 おおたわ: 父親も問題に気づいてからは薬を渡さないように努力しましたが、母親は父親に暴力を振るってでも注射薬を引っ張り出そうとして、止めるのはなかなか難しかったです。 さらに依存症という病気についての認識が広がって専門の病院や先生がたくさん増えたのは、平成の途中ぐらいからなんです。今はネットで調べれば専門外来を見つけることができますが、当時、昭和のころは専門の病院がありませんでした。頼るところがなくて、私たち家族が混沌としてしまったというのはありますね。




母親がどんどん壊れていく

――特につらかったことは何ですか? おおたわ: やっぱり母親が壊れていくことです。どんな依存症でもそうですけど、薬とかアルコールとかの依存症はだんだん脳細胞が萎縮していくんですよ。すると本来のその人の性格がどんどん変わっていくんですね。 その依存対象物を手に入れるためなら、どんな嘘でもつきますし、どんな裏切りも行いますから。母親の場合も、人を傷つけたり暴言を吐いたり、暴力を振るったり嘘をついたりと変わっていって、そういう姿を見るのは苦しかったし、体も注射痕で醜くなって見るにたえない状況ではありましたね。 ――どうやってつらい状況を解消したんですか? おおたわ: 解消しなかったんじゃないでしょうかね。誰かに相談しても分かってもらえない時代だったので、誰にも相談していなかったです。それに依存症の家族はみんなそうですけど、家庭の中の恥だと思っているので、あんまり言えないですよね。家族は隠そうとします。 ――お母様と距離を取ったこともあったと言いますが、楽になったんですか? おおたわ: 私は早く母親から離れたいという気持ちがあったので、なるべく早く結婚して家を出たいと思っていました。医者で忙しかったというのもありましたが、離れて見て見ぬふりをしていた期間がありました。その間は、母親を見ないで済んでいたので自分はすごい楽でした。 でも、その間に全部背負っていたのは父親で、母親は以前にも増して悪くなっていたんです。数年経って振り返った時に、父親にかわいそうなことをしたと思いましたね。


自分が入院することで考え方が劇的に変わった

――それで専門病院に相談したんですね。 おおたわ: そのころには依存症外来みたいなものや依存症の専門病院みたいなものが少しでき始めていたので、ネットで一生懸命調べてヒットしたところを訪ねてみようと思って、行ってみたんですね。するとそこの精神科の先生が母親ではなく、私と父親の二人で入院しなさいと言ったんです。山奥に依存症の家族を入院させるための施設があるからと予約を取られちゃったんです。 母親だけでなく、あなたもお父さんも病的な状況だから、まずはあなたたちが正常な状態に戻りなさいと言われました。それで他に手段もないので二人で入院しました。 ――そこに行ったら変わりましたか? おおたわ: 考え方が劇的に変わりました。依存症が病気だということがはっきり分かったのと、自分が変わることが大事だということに気づかされました。 依存症の家族って、依存症の本人をやめさせることだけで頭がいっぱいになるんです。お酒を取り上げる、ギャンブルを取り上げる、暴力をやめてもらう、薬をやめさせる。そのためにはどうしたらいいかとなっているんですけど、人を変えるのはすごく大変なことで、そのせいで何も手につかない、家族の顔を見ても楽しくない、仕事も手につかない。それをひとまず普通の生活ができる精神状態で暮らしましょうという発想に変えるんです。 母親がどうであれ、自分の人生はこれで終わっちゃいけないし、自分には楽しいことや幸せな瞬間やなすべきことがあるはずだと。それをまず取り戻そうという感覚に気づかされたのが、その入院でした。入院期間は2週間くらいだったんですけど、帰ってきてからは母親に薬物をやめさせることだけに必死になる感覚はなくなっていきました。 ――どんな治療をするんですか? おおたわ: グループセラピーです。午前も午後も同じような環境の人たちとグループミーティングをするんですよ。自分の家での出来事や自分の気持ちを話したり、他の人が家族に死んでほしいと思ったことや殺しそうになったこと、そんな自分が大嫌いだっていう話を聞いたりして。 すると、どこの家庭でも同じような話が出てきて、自分と全く一緒の気持ちの人たちがこんなにいるんだと知ってすごく心強い気持ちになりましたね。


薬物依存はなくなっても別の依存が……

――退院してからはどうされたんですか? おおたわ: 母親はその後、呼吸が止まりかけたりして何度も救急車で運ばれて、このままだと本当に薬で死ぬなという状況でした。そこで、父親が注射薬の入荷をやめたんです。本当は患者さんのためにも使うんですけど、とりあえず母親から遠ざけることにしました。 すると母親はほかの依存症の患者と同じように、他の睡眠薬を試してみるなど代替策を考えるようになりました。でも、母親の心を満たすような薬物には出会うことはできなくて、薬は半年ぐらいで諦めたんです。その代わり、買い物依存になってテレビの通販チャンネルで一日中買い物をし始めました。買い物依存の人の特徴として、買うところまでが楽しいので届いたころには何を買ったかも忘れているんです。 そのころ父親が亡くなったため、一人で寂しかったというのもあったと思います。最終的に母親は心臓の発作みたいなことで亡くなってしまいました。 ――お母様が亡くなられて、「呪縛が解けた」というようなことを本に書かれていましたが、実際にそういう感じだったんですか? おおたわ: 気がかりなことがひとつなくなったので、物理的には楽になったと思います。でも精神的には解決しなかったです。 私も医学を学んで依存症専門の先生たちとも知り合うことでたくさんのことを学びましたが、結局母親は何一つ改善することなく命を落としているわけです。中途半端なまま、無理やり強制終了されたような感じですね。


依存症にならないためにできること

――依存症にならないために予防として自分でできることはありますか? おおたわ:例えば依存症になりやすい特徴が自分にあるかどうかを見てみることです。「自己評価が低くて自分に自信が持てない」「人を信じられない」「本音が言えない」「見捨てられる不安が強い」「孤独で寂しい」「自分を大切にできない」といった特徴があります。 覚醒剤など、一回でも使えば犯罪になってしまうものはともかく、他人や社会に迷惑をかけないタイプの依存であれば、別に依存してもいいわけですよ。罪にならないレベルで上手に付き合っていく方法を考えるというやり方もあります。 ――家族の間で気をつけることはありますか? おおたわ: 私個人の経験から言うなら、親御さんがもしお子さんに依存症になってほしくないと思うなら、お前のことが好きだよ、生まれてきてくれて本当によかったと愛情を口にしながら育てることが大事です。自尊心は家族とか他人との関係の中で高まっていくものだからです。 ――もし家族が依存症になったらどう向き合えばいいですか? おおたわ: 今苦しんでいる方は、家族だけで抱え込まずに専門家を頼ったほうがいいです。依存症は、無理やり取り上げようとすると余計に悪くなるので。なぜ依存症になるかというと、元々生きていくのがすごく下手でつらいから、自己治療のために依存対象物が必要になるんです。アルコールとかギャンブルとかセックスとか薬とか、それがあることによってかろうじて生きていける。だからそれを取り上げられることはすごく苦しくてつらいことなんです。 依存症の人は、例えば溺れる海で自分が一生懸命見つけてきた浮輪があるからなんとか生きていられるのに、この浮輪を取り上げられようとしているような感覚なんです。 やめろって取り上げられそうになると余計にしがみつきたくなる。泳げないし、溺れそうになるし、苦しいから。だからこの浮輪を手放しても、怖くないよ、生きていけるんだよということを誰かが手を差し伸べて教えてあげたり、彼らの苦しさを取るためにはどうやって生きていけばいいのか一緒に考えたりすることができれば、浮輪を手放せるかもしれない。そういう考え方が、今の治療法のひとつとしてあるんです。それをやってみるのも一つの手段です。 ただ、これは家族だと当事者になってしまっているので難しいです。第三者のプロの力が必要です。自分の家族だけで解決しようとしてはいけません。だから専門家のところに行け、グループミーティングに行け、依存症外来に行け、家族会に行けってことなんですよ。外と繋がらないと無理だと思いますね。自分たちでなんとかできると思って、こじれてしまっている家族はたくさんいます。


この経験が刑務所での仕事に結びついた

――今、刑務所でお医者様として働いていらっしゃいますが、何がきっかけだったんですか? おおたわ: 父の後を継いで東京の小さい診療所をやっていたんですけど、あるときから診療所の経営を続けるのが苦しくなってしまって。私は父親みたいに診療所のことを心底愛していないと気づいた時にやめようと思ったんです。でもその後のことを全く考えていなかったんです。 そうしたら、ひょんなことから知り合いの知り合いを介して、法務省が刑務所とか少年院で働く医者を募集していることを知ったんです。殺人犯とか強姦犯とか、そういう人たちの診察をするので、みんなやりたがらない仕事だから人が足りないんだと。特に女性は嫌がる人が多いけど一度見学に来てほしいと言われて行ったんです。 そこで聞いたのが、日本の受刑者の多くは窃盗と薬物が基本的な罪状で、何度逮捕されても、何度懲役をくらっても同じ犯罪を繰り返してしまうと。人間の罪ってかなりの部分が依存症と背中合わせで起きているんだということに気づいたんです。そのとき、この仕事できるかもしれない、逆に向いているかもしれないと思いました。 医者になったことも母親の依存症と向き合った経験も、全部一本に繋がって、私はこれをやるためにきっと医者になったんだと感じました。 ――刑務所で働いてどんなことを感じていますか? おおたわ: 刑務所にいる人たちは、罪を犯して有罪になった人たちだから基本的には悪いことをしているんですよ。だけど、悪いことをするのには生育環境にも理由があるような気がして。自分の親の顔も知らないで生まれた人はたくさんいますし、親はいても育ててもらっていない人もいっぱいいます。 誰のことも信用していない、学校にも行かせてもらっていない、教育も受けさせてもらっていない人もたくさんいます。その中で人との信頼関係を作れないで大人になっている人が多くいるんですよね。そういう人たちに対して、どう再犯から遠ざけて生きていってもらうかを考えるのが、刑務所の医療でできることだと思うんです。 ――実際にはどう受刑者と接しているんですか? おおたわ: 刑務所の中で一番受刑者たちが人間っぽくできるところって、医療の現場に来たときなんですね。私たちは、ちゃんと面と向かって「どこがどう具合悪いですか」「これ良くなりましたか」みたいな話をしていきます。受刑者だからぞんざいに扱うということはせず、一人の人間として接します。 だから、刑務所の医療の現場というのは、受刑者たちに「ちゃんとあなたと向き合う人間はいます」「あなたの話を親身に聞く人はいますよ」ということを知ってもらういい機会でもあるんです。人間どうしの信頼関係はありえるんだということを、少しずつ分かってもらうことがすごく重要だと思います。



受刑者に笑ってもらう医療を提供

――刑務所の中に入っている人たちは、あまり笑わないで育ったという話も印象的でした。 おおたわ: ちょっと前まで監獄法という法律でがんじがらめで、受刑者たちはとにかく壁のほうを向いていろ、下を向いていろ、笑うんじゃない、私語厳禁みたいな、懲らしめる対象という扱いをされてきました。だから刑務所の中で笑うということはない状況だったんです。 でも、再犯防止はうまくいかず再犯率は減らない。その中で何かできることはないかと思った時に、たまたま医学の学会で教わって勉強していた「笑いのヨガ」「笑いの健康体操」というものがあって、それを刑務所の中で受刑者にやらせてみたらどうだろうと思いました。 生育環境が恵まれていないので、生まれてからあまり笑わないで育ってきている人がすごく多いんです。その人たちの体に笑いを覚え込ませることからアプローチしてみようと考えて、一昨年からやらせてもらえるようになりました。 体験後、「今まで自分はほとんど心から笑うことはなかった」「笑うっていうことがこんなに気持ちいいことだと初めて分かった」「笑うことを外に出てからも思い出してやってみたいと思った」といった声が返ってきたので、刑務官も私もやる価値があるかもしれないと実感し始めたところです。今はコロナで中断していますが、落ち着いたら今後も続けていきたいし、日本中の刑務所とか少年院でもっと広げていけたらなと思っています。


偏見と差別のない社会に

――加害者への風当たりは強いですもんね。 おおたわ: 依存症も犯罪もそうなんですけれど、敵になるのは「偏見」と「差別」なんですよ。「あの人は前科者だから」という偏見と差別があると、社会に戻っても行き場がないからまた犯罪に手を染めるしかなくなるし、悪い仲間のところに戻るしかなくなる。 依存症も同じで、「あの人、薬物依存なのよ」「覚醒剤やっていたのよ」という偏見と差別を受けると、また同じ世界に戻ることしかできなくなってしまうんですよね。だから社会の受け皿が変わることによって、再犯を防止できる可能性が広がると思います。 そんなに簡単には偏見も差別もなくならないんですけれども、そういうところの理解が進むと、世の中は少し変わるかなと思います。 ――最後にお伺いしたいんですけれども、『母を捨てるということ』という本のタイトルが過激で最初驚いたんですが、読んでみて結局母を捨てるべきという主張ではないと思いまして。 おおたわ: このタイトルは編集者の方がつけてくださったんですけど、結果的にすごく心を打つタイトルでよかったと思います。自分はある程度母親と距離を置いて見て見ぬふりをしてしまった時期があるので、そういった意味では母を捨ててしまったようなところがあります。 母と父が他界したいま、そのことに対して考えていることを書いた本なので、決して家族を捨ててしまいなさいという意味ではないです。家族っていうのは縁を切りたくても切れないものです。完全に断ち切れるものではないし、それを全部排除しては生きていけないですから。

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